姉 妹 の こ と
小さい頃は、祖母に厳しく育てられた
姉 ふたり と 妹
*姉は自分を犠牲にして家を支え、助けてくれた。
義兄とは仲良く過ごしていたが、義兄が亡くなってからは、幸せだったのだろうか。晩年、我が家に皆で集まった時に気づいたのだが、怒りっぽくなって笑顔がなくなっていた。その後、妹と一緒に、姉の見舞いに行ったとき、意識のないまま、部屋の端っこに、転がって寝ているような感じだったのを見たわたしは、思わず「なんで、こんな所に寝かせておくの」と言ってしまった。
甥は快く思わなかったようであった。お嫁さんには恵まれなかったのでは、と思うが・・・。こんなこと言ってごめん!
平成28年亡
*すぐ上の姉は優秀だった。
子どもふたりも優秀で、上の姉は少し羨ましげに言っていたことがあった。田舎の小さな学校だったが、中学では生徒会の副会長をし、陸上部とバレー部で活躍。運動会で思いだす事がある。
最後の種目の部落対抗戦。8区域ぐらいあったろうか。小学1年から中学3年までバトンを繋ぐのだ。中学1年で姉がトップを取り返した。最終学年、上の姉も速かったが、早い人ばかりが揃っていて、応援はものすごく、抜かれるかと思ったが、なんとか、トップでゴールインした。忘れられない思い出だ。
子どもたちは独立し、義兄とふたりで悠々自適に過ごしている。
遺伝なのか、子どもはもちろん、孫までもが、運動会の花形である。
*妹は21年に退職した。
運動会といえば、足の速さは私もそこそこだったが、妹は何か病気をしたせいか少し遅かったと思う。徒競走で、前のひと達が将棋倒しになった瞬間、サッと横を通り抜けてトップになった。これは、気持ちが良くてスカッとした思い出だ。
私がひとりで寂しいからアルコールを飲むとでも思ったのか、自分の家の近くに住めば良いのではないかと思ったらしく、家を探してくれた。
自分では、もうどうすることも出来なくなっていたのが分かっていたが、移転した。移転の際、数百枚あったレコードを断捨離されてしまったことは、今も忘れない。仕方がなかったとはいえ、悲しかった。
子どもたちは独立して今は二人暮らし。長い間働き、退職してもう随分経っているので、今は生活のリズムも出来た頃だろう。
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わたしの写真
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誕生日が2月23日で、子どもの頃、誕生日を聞かれると自慢げに「未来の天皇陛下」と言っていたのを覚えている。雛飾りなどを見ると、それなりの生活をしていたのではないだろうか。
汚れていたところに、お花を飾ってみました。台湾にて↓
高校へ入学して、新入生の歓迎試合をしたことがあった。姉は3年生で陸上部に入っていた。「妹さんだよね」と言われて、恥ずかしくないように、迷惑をかけないようにしようと思った。
先輩たちと↓・うれしそうなわたし
新人戦で優勝した記念に、先輩も一緒に。でも、写真の撮り方下手だね。
ヤエちゃんがいなくて、加代ちゃんがいる。
中学校で敵だった人が、高校では一緒になって、「大きくなったね」なんて言われた。私髪短すぎない?↓
高 校 時 代 の 「ソフトボール」楽しかったなぁ。
↑二女高の校庭で。
真っ黒けなわたし(上段左からふたり目)イヤ、みんな真っ黒だ。閉会式の行われる多分総合グランド迄市内をみんなで走って行ったなぁ。わたし、迷投手だったの。「おぉ、ハクジョ」だって、周囲のみんなが言って・・いい思い出。
学年対抗だったと思うが、バスケットの試合に出て、ワンゴール差で惜敗。
わたし、どこ?えっ、どこだぁ~
↑二女高の人たちと記念撮影。
イヤイヤイヤ、懐かしいなぁ。みんなどうしているのかなぁ。
それぞれの写真に写っている人たちの了解は得ずに載せてしまったけど、なんか、罪になるかなぁ。
勘弁してください。🙇
高校の謝恩会で
みんなと相談して全員参加をしようということで、演出を担当した。田舎からバスで東京へ・バスの運転手さんにガイドさん、お姉さんにおにいさん、おばあさんとおじいさん、お役をつけてみんなで出たの。国際劇場を舞台にしようという事で、踊りを習っていた人は踊り、イッちゃん、ロカビリーだったかな、すごく乗っちゃって。エミちゃん、花束アリガトネ。わたし、ぶっつけ本番で「裕次郎」の歌、唄ったの。
丁度、上皇様のご成婚の年で、白のVネックのセーターの男女迄。
「てんこ盛り」だけど、みんなで練習して楽しかったぁ。ケイちゃんの顔、半分しか?写ってなくて・・ゴメンネ。結構、評判良かったんだよ。
(集合写真・わたしが撮りました)
み・ん・な~~、元気ですかぁ~~。了解得ないで載せてしまって、すみませ~~ん。